アクマにお願い【2】




 部屋に充満した煙で視界がかなり奪われたが、煙の中に人影が見えた。

 さっきのキンキン声と今のシルエットを見る限り、出て来たのは人――に近いもののようだ。

 よくある蠅の王様とか、ライオンとかヤギみたいな奴が出てこなかっただけマシなのかも知れない。

 ……いや、落ち着け。どう考えてもこの状況はおかしいだろう。オカルトってレベルじゃねーぞ、マジで。

 どうやったらあんな子供の遊びみたいなもんで、厳重に締め切られた部屋の中に人が現れるんだよ。

 やっと混乱しだした頭を抱えていると、少しずつ煙が晴れてきた。それにつれて煙の中の人影もしっかりとしてくる。

 身長は低く、体も小柄で、肉付きも女――というより少女と言った方が近い。本当にこいつが悪魔なのか? という疑問は、次に見えた部分で幾分薄まった。

 背中に蝙蝠のような羽が生えていたのだ。まあ、それだけならただの飾りと思えたのかも知れないが、

「――って、ちょっと! 煙出過ぎよ! 加減ってのを考えて欲しいわよね、ホント!」

 悪魔(?)は言葉とともに、羽をバッサバッサと動かして、煙を払っているのだ。いくらなんでも動く羽を背中になど着けれないだろう。どっかの機械マニアがやったとかなら別かも知れんが……。

 さて、目の前の奴の努力で煙も晴れて来た。

 今一度よく見てみれば、予想通り女だった。服装は真っ黒のタンクトップにミニスカート、エナメルのロングブーツ。そして背中には紛れもなく蝙蝠の羽。人工物ではなく、どう見ても生物的な質感が見て取れる。

 しかし、彼女はまだ残っている煙が気になるのか、バサバサやるのに夢中で俺に興味を示さない。このままでは埒が明かないので、こちらから声をかける事にする。

「あー、すまんが、お前は誰だ?」

 俺の言葉でやっとこさ意識をこっちに持って来てもらえたのか、悪魔はこちらに視線を向けて来た。最初はきょとんとしていたが、すぐに不敵な笑みを浮かべると、

「アンタがワタシを呼んだのね!?」

 こちらの疑問に答えず、疑問をぶつけられてしまった。

 ……まあ、ここで押し問答をしても話が進まなそうなので、彼女に合わせるとしよう。

「――そうだ。まさか本当に悪魔が出て来るとは思わなかったがな」

「まぁ、そうでしょうね。ワタシも本当にやる人間がいるとは思わなかったし」

「あの本に載っている中では一番簡単なのにか? 他にもやった人間ぐらいいるだろう」

 後ろ手に例のオカルト本を指差すと、悪魔は嘆息して、

「そりゃいるにはいたけれど、あの本を見て実際にワタシを召喚できたのは、アナタが初めてよ」

「そうなのか?」

「ええ。悪魔召喚に限らないけれど、ああいう儀式には適正って奴があるの。その意味でアナタは合格――ええ、色んな意味で合格、って事よ――」

 意味深な笑みを浮かべながら、悪魔はそう言い切った。笑みと言葉が多少気になったが、文脈的におかしい所もなかったので、今はこちらの疑問に答えてもらおう。

「それで? お前は本当に悪魔なのか?」

 問いに、彼女は今一度溜息をついて、

「自分で召喚したくせに何言ってんの。……もしかして、願いもないくせに遊びで呼び出した訳じゃないでしょうね?」

 ジト目で睨みつけて来る悪魔に、俺は少し後ずさる。願いはない訳ではないが、遊びじゃなかったかと言えば、そうではないからだ。本当に悪魔なら、怒らせれば何をされるか分からない。ここはひとまず話を合わせないと……。

「願いなんかあるに決まってるだろ。俺は――俺はここから出たい!」

 俺の叫びに、悪魔はまたも意味深な笑みを浮かべた。こちらを睨む黒い眼差しは、まるで全てを見透かすかのように怪しく光っている。

 しばらく何も言わずにこちらと周囲を見ていた彼女は、唐突に頷くと、

「――なるほど。アナタ、死刑囚なのね?」

「……そうだが、何か問題あるか?」

「いいえ、ないわ。呼び出されたのなら応じ、その願いを叶えてやる。それがワタシの仕事だもの。それで? ここから出れればそれでいいのかしら?」

「ああ。ここから出て自由な生活を送りたい。それだけで十分だ」

「小さい願いねー……。でもまぁ、もはや外を見る事もなくここで死ぬのを待つだけって境遇を考えると、十分大きな願いか」

 彼女の答えに、俺は幾分ホッとした。これで願いを叶えるのがダメと言われれば、俺の希望は即座に崩されていただろう。さっきまで悪魔などという存在は信じていなかったが、現実に現れたというなら、すがるしかないのが今の俺だ。

 笑われようとも構わない。外に出れるなら何でもする――。




「……何でもしてくれるの?」




 その言葉に、俺は息を飲んだ。

 まさか俺の心を読んだっていうのか――!?

「悪魔だもの。多少なら簡単な事よ。人間の思考ってのは分かりやすいしね」

 クスクスと笑いながら、悪魔は軽く言い放つ。しかし俺の内心は落ち着かない。今の言葉には、何か裏がありそうな気しかしないのだ。それこそ――、

「『それこそ命を指し出せ』って言われるかも知れない、かしら?」

 ……俺はもう降参する事にした。人間の心が読みやすいというより、今の俺の心情が読みやす過ぎるのだろう。隠すなどする方が無駄のようだ。

「……ああ。まさか本当にそんな事言うのか?」

「残念ながら言うわよ。そりゃ対価もなしに手助けする訳ないじゃない。悪魔なのよ、ワタシは」

 そんな自信満々に言われても俺が困る。

 しかし、命か……。悪魔に命を差し出すとかいうと、嫌な予感しかしないんだが……。

「命を対価にするのは嫌かしら? でもアナタにはそれに代わるモノが何もないじゃない」

「……もし、嫌だと言ったらどうなる?」

「今回の話はなかった事に――ってなるだけよ。ワタシはすぐに消えて、アナタはこの寂しい独房で死刑になるのを待つ日々に戻るってだけ」

「そ、それは……」

 俺が口を挟もうとしたが、悪魔はそのまま話を続ける。

「でも何も心配しないでいいのよ。地獄に行って永遠の責め苦を受けるって訳じゃないんだから。死んだ後、アナタは痛みを受ける事なく済むんだから、このまま死んで地獄なんか行くより百億倍マシのはずよ。契約をしたら、アナタは時が来た時にその命をワタシに捧げるだけでいい。それから後の心配がないんだから良いでしょう?」

「……やっぱり地獄ってあるのか?」

「あるわよー。あそこはいつもうるさいの。色んな責めを受けて嘆き苦しむ哀れな連中の叫び声が止む事がないんだもの」

 やれやれと手を振りながら言う悪魔だったが、最後に「ま、あれも中々に聞いてて楽しいけどね」と言ったのを俺は聞き逃さなかった。

 だが、そんな事よりも、地獄という存在を聞いて真剣に悩んでしまう。

 死刑囚の俺だ。地獄が本当にあるというのなら、そこに落ちるのは確定事項だろう。仏教での教えとは違うのかも知れないが、それこそ子供の頃聞いた針山地獄とか火炎地獄とかに叩き落とされるのだろう。……正直、死んでからもそんな事を受けるのは勘弁して欲しい。

「さて、悪いんだけどそろそろどうするか決めてくれる? こんな鬱屈とした所で話続けるのは正直苦痛なんだけど」

「い、いや、もう少し待ってくれ。まだ決心が」

「そうもいかないんじゃない? だって、足音がいっぱい近づいてきてるもの」

 それを聞いて耳を澄ましてみると、確かに足音が盛大に響いて来ていた。しかも怒号が混じっている。おそらく異常事態に感づかれたのだろう。まぁ、あれだけ煙が出ていたし仕方ないか……。

「はいはい。それでどうするの? 契約する? それとも止める? 死ぬまでこんな所で腐ってるのか、パーっと最期に散るか、どっち!?」

 若干怒気の篭もった声で悪魔は俺を急かして来る。

 選択肢は二つ。

 一つは現状維持。だが、死を待つだけの退屈な時間を過ごす事になる。

 一つは自由を得る。だが、悪魔との契約。どうなるか分かったもんじゃない。

「ほらほら早くー」

 うっせえ、もう少し黙ってろ。

 てか、よく考えれば答えなんて決まってる。

 そうだ、一つしかないに決まってる。

 どうせ――、

「どうせ死ぬのが決まってるなら、悪魔だろうが何だろうが手を握ってやんよっ!!」

 俺の答えに悪魔は満面の笑みを浮かべ、そして、世界が暗転した――。



     ●



 真っ黒の世界に強烈な光が差し込んできた。

 あまりの光の強さに堪え切れず、俺はゆっくりと目を開ける。一瞬にして視界が白に塗り潰されたが、まばたきを数回すると、少しずつ輪郭や色彩が戻って来た。

 やっとこさ見えてきた景色は、アスファルトの地面と、その横に延々と続く高いコンクリート壁。俺はすぐに視線を動かす。するとコンクリート壁と逆の方向には木々が並び、さらにその向こうには、人の営みが行われているだろう建物の群れが見えた。

「本当に……外、か……」

「正真正銘塀の外よ。疑うなんて失礼ね」

 呆気に取られている俺に、悪魔は横から非難の目を向けて来ていた。

 今一度隣に立つ悪魔少女を見てから、空を仰ぐ。入道雲が見えるが、大半を占めているのはこれでもかと言うほどに青い空。そして、こちらに容赦なく光を当てる太陽があった。

「……って、暑いな……」

 思わずそんな愚痴を漏らしてしまう。

「当然でしょ。今季節は夏よ。あんなクーラーの効いた季節感のない部屋にいたんじゃ、仕方ないかもしれないけどね」

 あぁ、確かにあの部屋には季節感というのがなかった。おかげで何年あの部屋にいたのかも分からなくなったほどだ。

 ……そうか、これが夏の暑さだったな。耳に入って来る蝉の鳴き声もやかましい。だが、それがまた自由になったというのを体感させてくれ――、

「いや待て。俺が外にいた頃はこんなに暑くなかったぞ?」

「温暖化って奴でしょ。ワタシらからするとどーでもいい事だけど。人間達は大騒ぎしてるみたいね」

 素っ気なく言う悪魔に、種族の壁を感じてしまった。立っているだけで玉のような汗が噴き出している俺と違って、彼女の体には一滴の水分も浮かんでいない。それを見るだけで本当に悪魔なんだと感じてしまう。

「――それで? これからどうするの?」

「どうするって?」

 思案していると、向こうから声をかけられた。思わず俺はオウム返しをしてしまった。そんな俺に悪魔は呆れの溜息を漏らすと、

「どうするもこうするも、外に出て自由になったでしょ。これからどうするのよ」

「あー……、そうだなぁ。とりあえずこの場から離れて、見つからないようにこの服とか取りかえないといけないが……」

「あ、そう言うのなら既に手を打ってるわ。今のアナタは死刑囚に見えないようにしているから」

「そうなのか!?」

 慌てて自分の体を見てみるが、着ている服は変わらず囚人服のままだ。どこかが変わったようには見えないが……。

「ワタシとアンタ以外の人間にはって事よ。服を変えてあげてもよかったけど、それじゃ根本的解決にならないでしょ」

「まぁ、その点に関しては助かるな……」

 さすが悪魔と言うべきか……。

 しかしここまで色々やってくれるなんてな。それこそどんな代償を――って、命を渡すんだったか……。そういえばさっき気になる事を言っていたな。

「ところで、期間が来たら魂を渡すって事だったが、俺はいつまで生きられるんだ?」

 俺の問いに、悪魔は口元に手を当てながら逡巡し始める。

「そうねえ……、区切りが良い所で、ひと夏って所かしら」

「ひと夏だって!?」

 あまりの驚きに声を張り上げてしまう。

 いや、そりゃそうだろう。さすがに命と引き換えでひと夏限りの自由ってあんまりじゃないか!?

「短いって事はないはずよ。一生懸命動けば、一ヶ月でも十二分に充実した生活を送れるはずよ。……それに、そこで死んでる蝉よりは長生きじゃない」

 指差す先を見てみると、そこには生を終えた蝉が一匹死んでいた。まだ他にも鳴いている蝉がいる中、アスファルトでジリジリと焼かれる死骸。そして、それに群がる蟻達の姿を見て、反論する気持ちが萎えて来てしまった……。

「ま、その分アフターサービスはしっかりしてあげるわ。思う存分ひと夏を過ごせるように、至れりつくせりって奴をね――」





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