アクマにお願い【3】




 久々の外の世界は、案外快適だった。

 悪魔の言った通り、周りの人間には、俺はまったく違う外見に見えているらしく、誰も俺を脱獄犯だと分かっていなかった。それどころかどれだけイケメンにされたのか、女が向こうから寄ってくる始末。まあ、ついでにガタイの良い男も寄ってくるのは困りものだったが……。

 だがまあ、人目を避け、隠れて生活しないで済むというのは、精神的にも体力的にもありがたかった。もし追われる立場であれば、久しぶりの外の空気を楽しむなんて余裕はなかっただろう。

 そして悪魔は、アフターサービスなのだろう恩恵をかなり授けてくれた。

 まず金である。

 拘置所を出てすぐ、アイツは札束でパンパンに膨らんだ財布を俺に渡していった。最初は必要な物を買い揃える為に色々使ったのだが、使っても使っても財布が薄くなる事がないのだ。

 疑問に思っていると、再び現れて『言い忘れてた。お金は必要なだけその財布から出て来るからね。気兼ねなく使いなさいよ』と教えにきた。

 それからというもの、豪遊に次ぐ豪遊である。まさに成金長者のような金の使い方を俺はしまくった。高級ホテルのスイート貸し切り、高級レストランの食べ歩き、夜の街での遊び(ここでの金遣いが女を引き寄せたとも言えるが……)、ちょっとしたおすそ分けで無駄に募金として一億振り込んだのも懐かしい話だ。

 ニュースが殊更に暑さを強調する夏だったが、気温による暑さなど俺が感じる事は一切なかった。金があるという事は、冷房の効いた快適な部屋でまったりし放題だし、わざわざ外を歩く必要もなく、冷房の効いた移動手段も使いまくれたからだ。

 夏っぽさを感じる事はなかったとはいえ、超快適な生活というのもまたオツなものだった。

 というか、わざわざ暑い外を好きこのんで出歩く人間もいない……よなぁ……?

 ――結局、ひと夏限りの命とか、夏の夜の夢とか一切考える事もなく、一ヶ月はあっという間に過ぎ去ってしまった。

 今日は八月三一日。

 悪魔との約束では、夏の終わりが期限という事だったので、一般的感覚で言えば今日が最終日なのだろう。

 しかし夏の暑さはまだまだ止む事なく、あと一ヶ月はこの暑さは続くという話だ。

 そうなるとまだ俺の命は持つのだろうか……とも思ったが、あまり期待しない方がいいだろう。あのふざけた悪魔の事だ。突然現れて命をパパーっと持って行ってしまうだろう。

 そんな訳で俺は、久しぶりに外をぶらついていた。

 肌を焼く強烈な日光に、まとわりつくような熱気。そして噴き出す汗。

 夏の代名詞とも言えるような現象に、既に俺はグロッキーになっていた。

「くそ……やっぱ気まぐれに出歩くんじゃなかったか……」

 愚痴を言いながら、俺は木陰になるべく入りながら歩道を歩く。しかしアスファルトから照り返される暑さは、少々の木陰では対策にもならない。

 珍しく強い風が吹いて、少しだけ暑さを和らげてはくれるが、一瞬かつそんな威力では根本的な解決になる訳もない。

「……ま、これも今日と考えれば、感慨深いか……」

 視線をずらしてみれば、俺の存在に気付く事もないまま、人は行き交い、車はどんどん走り去っていく。

 いつ終わるとも知れない命と、いつ死ぬか分かっている命。

 どっちが幸せなのかは分からないが、一つだけ言えるのは、向こう側の連中はやりたい事もできないまま死んでしまう事もあるという事だ。

 そう考えると、やりたい事をやれて死ねる俺は幸せなのかもな。

 そんな感傷的な事を思っていると、ふと前方から走って来るトラックに目が行った。

 法定速度をキッチリ守れなんてお堅い事は言わないが、それでもあのスピードは異常だ。高速道路でも走ってるつもりなんだろうか。あんなんじゃ、いつか事故っても――、

「って、おい!!」

 嫌な予感ほど当たるもんである。

 視線を動かしてみると、向こう側の歩道から、子供が道路に飛び出そうとしていた。理由はおそらく、道路の真ん中を転がっている帽子だろう。

 さっきの風か! てか、何てベタな展開だってんだよ、ちくしょう!

 思わず体が動いた。

 歩道に取り付けられたガードレールに手をかけ、一気に飛び越える。

 そのままの勢いで子供に向かって駆け寄る――と思ったところで、変化があった。

 俺は思いっきり足を動かしていたはずなのに、まったく子供との距離が縮まらない。というより、目の前の光景が動いていない。

 まるで――時間が止められたかのように――。




「ダメじゃない。予定外の行動取っちゃ……」




 混乱していると、悪魔の呆れ果てた声が響いてきた。

 視線の向きを変えると、そこに相も変わらず露出の多い服を着た悪魔がぷかぷかと浮かんでいた。

「……俺の動きを止めたのはお前の仕業か?」

「当然じゃない。こんな芸当、人間にできる訳ないでしょ」

 悪魔は笑みを浮かべているが、その笑みは上っ面のものにしか見えない。先ほどの口振りからしても、その顔の下には怒りが満ち満ちているはずだ。だが、それはこちらも同じ事だ。

「何で止めるッ!!」

「それはこっちのセリフよ。何、あの子助ける気?」

「……悪いか?」

 俺の尋ねに、悪魔は冷たい視線をこちらに向けて来る。

「悪いわね。だって、あの子を助けたら、アナタが死ぬもの。それでは契約違反になるのよ」

「どうせ今日で俺の命はアンタのモノになるんだ! これぐらいいいだろう!」

「ダメよ。絶対ダメ。言っておくけど、アナタの命がひと夏限り――今日までっていうのは、今日でアナタが死ぬという訳じゃないのよ」

「……どういう事だ?」

 訳が分からず、単純に疑問をぶつける。

 悪魔は一つ大きく溜息をついてから、説明を始める。

「悪魔との契約での『命を差し出す』とは『魂を譲り渡す』という事よ。アナタ達人間にとっては肉体の死こそがそのまま死なんだろうけれど、契約において肉体はどうでもいい。ただ、勝手に魂の枷を外されては困るのよ」

「魂の……枷?」

「魂と肉体ってのはね、厳重に繋がっているのよ。でもその枷は、肉体の死によって一気に緩む。けれどもそれはすぐに離れる訳じゃなくて、完全に枷が外れてしまう前に魂を引き取るのが悪魔のやり方よ。でもここで問題になるのが、その枷の外れるスピード。即死に近ければ近いほど、枷は一瞬で外れてしまう。それではワタシ達が魂を引き取る余裕がないのよ」

「それなら、今みたいに時間を止めればいいじゃねえか」

「残念だけど、今は時を止めてる訳じゃないわ。こっちの高速思考にアナタの脳を無理やり合わせてるだけ。普通の人間がそんなものに耐え切れるはずないから、この会話の後に脳が焼き切れるのを保証するわ」

 おいおい、話をする為に人の脳をぶち壊すってのかよ。さすがにロクでもねえな、悪魔。

 魂の枷って話は正直よく分からなかったが、とりあえず俺があの子を助けるのはコイツにとって都合が悪いってのは分かった。そして、それを阻止するのにコイツは手を惜しまないって事も。ただそうなると、

「クソッ! それじゃ、どうしろって言うんだよ!」

「どうもしない事よ。見逃しなさい、命の一つや二つ」

「いや、しかしだな――」

 俺の激高を何の感慨もなく流した悪魔は、それでも反論しようとする俺に今までで一番の鋭く冷たい視線と冷笑を向け、

「何高潔ぶってんの? アンタは気に入らないからって、家族を全員殺しちゃうような殺人鬼さんでしょ? 何、家族は何人でも殺せるくせに、子供一人の命は助けちゃうんだ。――滑稽ね。えらく滑稽だわ。矛盾しているにもほどがある」

 悪魔の言葉に、俺は言葉を詰まらせる。

 ……確かに。確かに俺は気に入らないという理由で家族を殺したかもしれない。それでも。それでも俺は――、

「――ハッ。本当に人間ってのは変な生き物ね。単純に眺めてるだけなら暇潰しになったし、アイツらが振り回されるのを見ているのはすっごい面白かったわ。……だけど、実際自分が相手するとなると――――ムカつくわぁ……! とお――ってもっ! アイツらのイラつく気持ちがこんなに分かるなんて、それを含めてでもムカつくわぁ!」

 今まで以上に感情を露にする悪魔。少女のような外見から発せられる激しい怒りは、それこそ悪魔としか思えないプレッシャーだった。体はまったく動いている気がしないが、もし動いているとすれば足は竦み、立ってもいられなかっただろう。それほどだ。

 だが、こっちとしてもここまで来て引く気持ちはない。

 だからこそ今一度考える。あの子供を助ける為に。

 悪魔は俺を死なせる訳にいかないので、コイツは俺の動きを妨害してくる。

 俺が動けない以上、あの子供を助けられるのは俺以外の人間ではあるが、この場には悪魔しかいない。とは言っても、コイツが善意で動く訳がない。

 そんな悪党を動かすには、それこそメリットを提示すれば――、




「……おい。今から俺が言う話は可能か?」



     ●



 ボクが目を覚ますと、そこは知らない場所だった。

 物の少ない白い部屋の真ん中で、ボクはベッドに寝かされていたみたいだ。

 何が何だか分からず今一度周囲を見渡すと、さっきまでなかったはずの色がそこにあった。

 色は、黒色と肌色。

 二色で染め上げられたその姿は、大人ではなさそうだけれど、それでも十分ボクよりは年上のお姉さんだった。

「……お姉さん、だれ?」

 目の前に立っているお姉さんは、口元に笑みを浮かべてから口を開いた。

「悪魔よ、悪魔。実はね、さっきキミの命を助けてあげたのよ」

「ボクの命を? ……ありが――とう?」

「疑問形なのが気になるけど、まぁ実感がないんだし仕方ないわね。――さて、今からアナタに大事なお話があるの」

「大事なお話?」

 首を傾げながら尋ねると、お姉さんはゆっくりと近づいてきて、右の人差し指でボクの胸を突いてきた。

「ええ、そうよ。ワタシはキミを助けてあげた。でもこれは無償って訳じゃない。無償の愛なんて高尚なモノはワタシ達悪魔にはないの。世の中はギブアンドテイク。分かるでしょ?」

「そ、それぐらいなら分かるよ。助けてくれた人にはお礼をしなきゃいけないんだよね」

「お姉さん、賢い子は好きよ。それでこそ助けた価値もあるってもんね」

「でも、ボクお礼できる物なんて持ってないよ? それこそお父さんかお母さんに言ってもらわないと……」

 困りつつ答えると、お姉さんはくすっと笑ってから、やさしげな笑みを浮かべて、

「だーいじょうぶ。キミからちゃんと貰えるモノよ」

「……本当?」

「ええ。――死後、キミの命をワタシが貰うってだけの話よ――」

「――――え?」

 お姉さんが、何を言っているのかは分からなかった。

 だから、何も分からないまま、疑問の声を出すだけだった。

 でも、お姉さんはそんなボクの様子にただただ笑みを浮かべるだけ。

 その笑みにさっきまでのやさしさはなかった。心底楽しそうな、愉悦の笑みを浮かべて、

「ワタシを恨まないでね。ワタシはキミみたいなカワイイ子を下僕にしたくなんか――ちょっとはしたいと思ってたけど――したくはなかったのよ、うん。ま、恨み節なら後ろのアイツに吐いてやって。キミを助けて、それから契約するように言ったのは、アイツなんだから――」

 お姉さんの視線につられて、お姉さんの後ろに目を向けると、そこにはスーツを着込んだお兄さんが立っていた。でもその顔は青白くて、まるでお化けみたいで――。




     ●



「フフフ……、時間はかかるとはいえ、まさか下僕が二人も手に入るなんてね。まったく、この世は面白いわ。人間ってのはやっぱり――面白いわねぇ――」





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