少女、暁美ほむらは悠然と佇んでいた。
彼女の射抜くような視線は、まどかと、さっきまでキュゥべぇだったモノを捉えていた。
さっきは威勢よく声を上げたものの、ほむらの無言の睨みに、まどかは悪寒を感じ、それ以上何も言えなかった。
疑念の代わりに彼女の脳内を支配したのは、恐怖。
自分もキュゥべぇのように、あの拳銃で撃たれてしまうのだろうか?
撃たれてしまったら簡単に自分は死んでしまうだろう。銃というものに対して、人間の体はとても脆弱だ。
(……でも、私、ほむらちゃんに殺されるようなことしたっけ……)
思わず自己弁護の言葉が脳内をよぎった。このような状況では何もかも諦める方が利口かと思ったが、それでもやはり、
「……私、死にたくない……」
微かに震える声をまどかは漏らした。
それが合図だったかのように、ほむらがこちらに向かって歩き始めた。
恐怖が押し寄せてくるというのは、こういうことを言うのだろう。
黒い死神が、まどかに死を与えるために少しずつ近づいてくる。
ほむらが一歩進むたびに、まどかの震えも酷くなる。カチコチと歯の音が鳴り、体は竦んだまま動けない。
ローファーが地面を叩く音が、今はもう死へのカウントダウンにしか聞こえない。
一歩。
一歩。
一歩。
均一なリズムを刻み、そして、遂にほむらがまどかの面前へとやって来た。
相手は拳銃を持っている。しかも遠くからキュゥべぇを蜂の巣にするほどの腕前だ。今自分が何をしたところで逃げ切れる訳がない。それを感じ取っていたまどかは、最後の足掻きとして、今一度口を動かす。
「わ、わたしもキュゥべぇみたいに殺すの?」
死を間際にすると、人間はどこまでも開き直れるものなのだろう。まどかは普段では考えられないほどに力の篭もった視線を、ほむらに投げかけていた。
それを受けて、ほむらの表情に一瞬困惑の色が浮かんだように見えたが、すぐに元の感情の読めない顔に戻り、
「何を言ってるの? 私は貴女を助けただけよ」
「――――――え?」
呆気に取られたまどかは何が何だか分からず、次の質問が出せない。それがしばらく続いたことで、ほむらはまどかの考えに気づいたようで、表情を緩めた。
「貴女、勘違いしてるわ。私の目的は、そこの白い奴を殺して、貴女を助けること。あなたがそいつと契約したりしないようにね――」
「契約を? え、でも、契約したらすごい力を得られるって……」
「愚かね。そんなことある訳ないじゃない。力を得るどころか、命を危険に晒すだけよ」
「ど、どういうこと!?」
さっきまでとは180度違う話に、まどかの頭は混乱してしまった。
それを見たほむらは、仕方ないと言った風に首を振った。
「そこのキュゥべぇと言うのは、本当はインキュベーターと言うの。ちなみに、孵卵器という意味よ」
「孵卵器……?」
「インキュベーターは、少女を魔法少女という存在にし、将来的には魔女という存在にすることで、それまでに溜まった感情や想いなどをエネルギーとして回収するの。魔法少女という卵を魔女として孵す。だからこそインキュベーター、孵卵器なのよ」
「そ、そんな……」
「事実よ。だからこそ、私はここにいる」
絶句するまどかに、ほむらはキッパリと言い放つ。
二転三転する状況についていけず、まどかはうろたえるばかりだったが、ほむらが嘘をついているようにも思えない。と言っても、先ほどまでキュゥべぇの話を信じてしまったことを考えると、またほむらに騙されているのはでないか、という不安もあった。
そんな不安が顔に出てしまっているまどかだったが、ほむらはそれを知りながら、まどかの言葉をじっと待っていた。
決めるのは貴女自身というばかりに、ほむらの答えを待っている。
その気持ちに甘えてまどかはゆっくりと決断しようと思っていたのだが、その時間は突然破られた。
ほむらの背後に、黒い影がゆらりと立ち上がったのだ。
「ほむらちゃんっ!」
思わず、まどかは叫んだ。
しかし、叫びも虚しく、まどかの胸にほむらが倒れこんできた。慌てて抱き留めると、ほむらの背中には斜めに赤い線が走っていた。
その赤が彼女の血なのだと理解するには若干の時間がかかり、そしてそれを理解してからは、
「ほ、ほむらちゃん! ほむらちゃん! しっかりして!!」
ただひたすらに呼びかけるしかなかった。
しかし、嫌な気配を感じたまどかは、ほむらから目を逸らし、視線を上げるしかなかった。
前から受けるプレッシャー。
それは先ほどほむらから受けたような死の恐怖。さらに未知の物を見たがゆえの恐怖だった。
目の前にいたそれは、確実にこの世のものではなかった。
子どもがクレヨンででも描いたような色彩と形をした異形の徒。
その異形の後ろに、何か白いものが動いているのが見え、まどかは驚いて声を上げる。
「そ、そんな……。あなた、さっき……」
まどかの声が聞こえたのか、それとも聞いていたのか、その白いものは先ほどと変わらない愛くるしい声を上げる。
「確かにぼくは死んだよ、まどか。それは事実だ。――でも、ぼくが一体しかいない、なんて誰も言っていないよね」
驚きが連続して起こり過ぎた1日だったが、今が一番驚いていた。
まさか死んだはずのキュゥべぇが生きて、いや彼の言葉通りだとすると、別個体なのだろう。しかし、別個体が殺されたという事態をも、ただの結果であるとばかりに現れたその存在に、まどかは得も知れぬ恐怖を感じていた。
「まったく、暁美ほむらには困ったものだね。いつもいつもぼくの邪魔をしてくれる。体を壊されるのはこれで何度目だろう。でもまあ、今回は珍しく油断していたね。おかげで不意打ちなんてことができたよ。まどか、君という存在のおかげかな?」
「そ、そんな……私のせいで……?」
ほむらが襲撃された責任が自分にある。
その事実に戸惑い、ほむらを抱きとめながら彼女は体を震わせる。
異形の徒は奇妙な笑い声を上げながら、数を増やして自分の周りで飛び跳ねている。力ない自分を嘲笑う声は次第に大きくなっていく。
このまま自分は彼らの獲物として殺されてしまうのだろうか。
恐怖に思考ができなくなる。
頭が真っ白になって、ただ何も考えられず――、
「ま、まどか……」
「ほむらちゃん!?」
苦しそうな声が聞こえて、まどかはハッと意識を戻した。
出血のせいでほむらの顔は青白くなっているが、まどかは心配させまいと苦しくも笑みを作ろうとしている。
彼女はゆっくりと口を動かし、言葉を紡ぐ。
「……よく聞いて、まどか。インキュベーターとの契約で魔法少女になるのはいけないわ。……でも、魔法少女になってもらいたいの」
「ど、どういうこと?」
「こ、これを……」
ほむらは左腕に装着された円盤に手を伸ばすと、その中からピンク色の卵のようなものを取り出した。
それはピンクの球体の周囲を金の装飾が彩っていて、まるでロシア帝国のインペリアルイースターエッグのような意匠だった。
「こ、これをどうすればいいの!?」
「ただ願うだけでいい。自分は魔法少女になりたい、と。それでそのソウルジェムは貴女に答えるわ――」
ソウルジェムと呼ばれたものを受け取ると、ほむらはまた苦しそうに悶えた。
まどかは再度呼びかけるが、それ以上ほむらが何かを言える気配はない。
そうこうしているうちに、異形はもう彼女の眼前へと迫っていた。今にもまどかとほむらを飲み込まんと極彩色の姿が周囲を覆っている。
(……これを使えば魔法少女になれる……。でも、キュゥべぇとの契約はダメで、これは良いの? よく分からないよ、ほむらちゃん……)
まどかの悩みは深まる。だが、目前に迫りくる脅威に、迷っていられる時間はそれほど長くなかった。
「――私、ほむらちゃんを信じるよ――!」
意を決したまどかは、ソウルジェムを今一度強く握りしめる。
己を想いを籠めるように。
「私、魔法少女になりたい――!!」
まどかの叫びに呼応するように、ソウルジェムが光を放出した。
ピンクの光が周囲を眩く照らし、光のリボンがまどかの体に巻きつき、全身を包み込む。
まるで海の中にでもいるかのような錯覚を覚えていると、巻きついたリボンが少しずつ弾けていく。
その下から現れるのは、さっきまで着ていた制服ではなく、フリルが各所についたかわいらしいピンク色のドレスだった。
それこそ、まどかが子どもの頃に夢見ていたような、魔法少女のような姿――。
「うわぁ……!」
まどかは思わず感嘆の声を漏らす。
まさか自分が魔法少女という存在になれるとは。
アニメのような変身が現実になっているとは。
そのことに興奮が抑えられず、動悸が速くなっていく。
だが、そこでまどかはふと気づいた。
「えっと……、これでどうすればいいんだろう……」
変身の仕方は聞いたものの、戦う手段はまったく聞いていない。
アニメの魔法少女なら、ステッキを振りながら呪文を唱えれば魔法を出す事ができていたはずだが、自分の場合は果たしてどうなのだろうか。
そうしていると、ピンクの光が晴れていく。
魔法少女になれた興奮と嬉しさをかき消して、不安が大きくなっていく。とっさの判断で変身はしたものの、戦うことの覚悟などまったくできていない。
果たして自分は戦えるだろうか――と思っていても、光は容赦なく晴れてしまう。
仕方なく、まどかは意を決して周囲を見渡すと――、
「あ、あれ…………?」
さっきまで周囲を覆い尽くしていたはずの異形は完全に姿を消してしまっていた。
周りは普段と変わらない通学路の風景になっている。
だが、いつもと違うのは、道に倒れ伏すほむらとピンク色のドレスを着たまどか。そして、2人を見下ろすように見るキュゥべぇだった。
キュゥべぇはそのつぶらな瞳を閉じて首を横に振った。
「変身の余剰魔力で魔女を消し飛ばすなんて……。凄まじい力を秘めているとは思ったけど、これほどとはね。まったく素晴らしいよ。まあ、今回は暁美ほむらにしてやられたけど、僕は決して諦めないからね――」
そう呟きを残して、キュゥべぇの姿が闇夜にかき消えた。
残された空間に、まどかは1人立ち尽くす。
自分はまったく何もしていないのに、さっきの異形は消えてしまっていた。先ほどのキュゥべぇいわく、変身の光に当てられて消し飛んだらしいが、そんな簡単でいいのだろうかとも思ってしまう。
「ま、まあ、助かった――んだよ、ね……?」
まどかがホッと胸をなでおろしていると、衣擦れの音が聞こえた。振り向くと、倒れていたほむらが立ち上がっていた。しかもさっきまでの苦しそうな表情は消え、いつものクールな様子を見せている。よく見ると、服装も学校の制服へと戻っていた。
「貴女が正しい選択をしてくれてよかったわ。これからよろしくね、まどか――」
彼女は、普段まったく見せないやわらかな笑みを見せながら、手を差し伸べる。
「こ、こちらこそ、よろしく――」
一瞬ためらったまどかだったが、すぐに笑みを作ると、その手を取るのだった――。