最近は朝に食欲がでない。だが、食べない訳にもいかないからトーストを牛乳で無理やり流し込む。
時間割りを確認し、必要な物をかばんに放り込んで、制服への着替えも同時に済ます。時間を気にしながら歯磨きを済ませ、寝癖を直す。今日は少しひどいが、まあ気にする事でもない。
そして、いつも通りの時間に家を出る。
エレベーターのボタンを押し、待ちながら靴の紐を結び直す。そうこうしてるとエレベーターが到着。すぐに乗り込んで一階のボタンを押し、すぐにドアを閉めさせる。
静かに振動と音を発しながら、エレベーターは降って行く。俺は階数表示板を見上げながら、一階に着くのを待つ。
九階。
八階。
七階。
六階。
五階。テンポ良く点いたり消えたりする。
次は四階だ。
だが、順調に階数を示していた光が消えた。
長めの間が空き、三階に光が点る。
順調だった時の一定の間で、二階に点った。
そして一階に光が点ると、エレベーターが一際大きい音と揺れと共に止まり、ドアが開く。
俺はすぐに出ると時間を確認。少し急いだ方が良い。俺は、駅に向かって走り出した。
毎日飽きもせずに繰り返す、退屈な日常の始まり。
だが、最近に増えた事が一つある。
それは、四階だけ点かないエレベーターの階数表示板。
そうなったのは一ヶ月前だったか。
ぼーとしながら、ただ単に表示板を見ていた。その時はテンポよく点いたり消えたりしていた。だが、四階だけが点かなかった。それに気付き、その後数日間、乗るたびにチェックしていた。何度見ても点かなかった。
管理人に相談し、見てもらった。だが返ってきた返事は、
「どこも消えたりしてないよ?」
気になり、もう一度見た。
やはり消えた。
他の人にも見てもらった。だが結果は同じ。みんな口を揃えて、
「そんな事無い」
一度だけ、他の人と一緒に見た。その時は何故か点った。
俺が達した結論は一つ。
――俺がおかしいだけ。
そういう事にした。その方が手っ取り早いし、説明も簡単だったから。で、忘れたつもりだった。
しかし、俺にはその事が頭から離れなかった。エレベーターに乗るたびにチェックし、消える事を確認する。それが続いてもう二週間を越えた。
そして、それは日常となった。
日常となってからはその事があまり気にならなくなった。ただ消えているという事実を確認するのみ。これで、この呪縛から解放されると思っていた。
しかし、記憶とは不意に戻るものだ。忘れてもちょっとしたことで思い出す。
そして俺は、消える四階に足を踏み入れる事を決意していた――。
微妙な揺れを感じながら、エレベーターは降りて行く。着くまでの時間はまるで、悪さをしようとする時の緊張感に似ている。それを心地よく感じるのはおかしいだろうか?
まあ、そんな事を考えてたら、ポーン、という音が鳴った。目的地の四階に着いたようだ。
表示板を見る。光は点っていない。いつも通りだ。
だが、一つ違う事があるとすれば、何かが違う。そう、何かが違う。自分達とどこかがずれているかのような錯覚を覚える。
そんな考えが浮かび、止めた方が良いのでは、と思った時はすでに遅かった。
エレベーターのドアが開く。まるで、判決が下される法廷の扉のように、厳かな雰囲気を持って。
開いた先に見えたのは闇だった。
黒い黒い真っ黒な闇。
それと、闇に浮かび上がる真っ赤な一対の目。
俺が見たのはそれだけ。
そう、ただ、それだけ。
他には何も見れなかった。いや、見ようとした。
しかしその時にはすでに――俺は喰われていた。一面真っ黒で、真っ赤な目を持った闇に。
俺は、最期に思った。
学校の終わりを告げるチャイムが流れる。地獄のような一週間だった。この一週間は脳と体を酷使するような授業ばかり。正直もう帰って寝たい。だが、俺にそんな幸せは来ない。
ズボンのポケットが振るえ、ジョーズのテーマが鳴り始めた。
……ほら来た。そろそろだと思ったんだ。ああ、来ると思いましたよ、絶対に! はあ……、早く出ないとうるさいから出るか……。
「……はい、東堂です――」
『遅い! 鳴ってから一秒で出ろといつも言ってるだろ!』
……くそ、あの人はいつもこれだ。だが、このペーズに乗る訳にいかない。乗れば一日中お小言だ。ここはしれっと流しておこう。
「無理です」
『ん? 無理だと? 東堂、限界を決めるのは愚かな行為だぞ? 限界を認識してしまったら、進化はそこで止まってしまうのだからな』
まともな事を言ってるがもう聞き飽きた。携帯であの答えを返せば必ずこの話になる。これでもう十回はやったな。他のを考えないと。
『――東堂聞いているのか? 学校が終わったのなら早く来い。今日は仕事が入ると私はよんでいる』
「先生の勘は当たるも八卦、当たらぬも八卦≠カゃなかったですか? 信用性がありませんね」
『……それは馬券とかの話だ。忘れろ』
「忘れてもいいですけど、バイト料アップでお願いしますね」
『――解った解った。いいから早く来い。今回の勘は絶対当たる』
「分かりましたよ。じゃあ、二十分ほどで行きます。それじゃ」
携帯をポケットにしまう。
――全く、こんな物が出来たから、俺は時間を拘束されるんだ。俺はこれを作った人を一生恨むね、マジで。
さて愚痴を言ってる場合じゃない。二十分で行くと言った手前、急がないとな。
俺は、目的地に向けて速足で出発した。
そこに先生≠アと、霧憂聖(きりゆうひじり)の事務所がある。ビルには、霧憂デザイン事務所の看板が取り付いている。
しっかしいつ来てもボロイ事務所だ。今登ってる階段も、ドラマみたいにギシギシ言いやがって。こりゃあ、次の大地震で崩れるな。気をつけよう。
で、事務所のドアの前に来た。俺はそこで深い溜め息を一つし、ドアを睨む。
――これこそ鬼門だよ。この先には恐ろしい鬼がいる。現代の鬼が。それに魅入られた俺って不幸……。
「ほらっ! そんなとこで何突っ立ってんだ! 早く入って来いっ!!」
ちっ、気付かれてたか。仕方ない、観念して入ろう。
ガチャ、と音を立ててドアを開ける。開いて見えた空間は、――ゴミやらなんやらの集積場だった。
「あのー……、片付けません?」
俺の言葉に、本が積み重なった山の向こうから女の人が立ち上がり、こちらに向いた。
「あぁ? 片付けはお前の仕事だろう。全く、三日もサボりやがって」
女の人は、セミロングの黒髪を掻きながら、怒りをあらわにした声で話しかけてくる。
この人が霧憂聖。性格は天才肌で短気。怒る前も怒った後も鬼。
先生は書類や本の山を掻き分けながら、こっちに向かってくる。
先生は背が高い。一八〇センチはある。俺の身長は一六〇無いので、いつも見上げる形になる。これはかなり屈辱的な事だ。しかし、先生にもコンプレックスはある。だが、それについては言わないでおこう。それを言ったら、――死ぬ。マジで。走馬灯を見る暇もなく殺される。
――確か、この前不良っぽい奴に言われた時は、いきなり跳び膝蹴りから入って、倒れ込んだ所で腹を踏みつけ、そこからタップダンスの如く連続で踏みつけ。トドメに、急所を高速で叩き潰したんだったか。あの不良もかわいそうに。あれじゃ、一生使い物にならないだろう。
「――東堂。お前、反省してないね?」
「いえ、とても反省しております。どうもすみませんでした」
俺は、深々と頭を下げる。まだ死にたくないから。
と、頭を下げた俺の視界に、黒い物が見えた。黒い物は俺の足に近付くと、くぅーん、とかわいく鳴きながら、体を摺り寄せて来る。それに奇妙な感覚を感じ、飛び退く。
しかしその先にあった物は、書類の山だった。姿勢を整える間も無く、山に激突する。
山は一瞬で崩壊し、俺を飲み込んだ。埋もれてしまった俺は光を求め、紙を掻き分け顔を出した。その様子を見ていた先生は溜め息をつくと、
「まだシロに慣れないのか? シロはお前にメチャクチャ懐いてるのに。お前は動物嫌いという訳ではないだろう?」
シロという名の黒犬は、先生の下で俺を見ている。少し物悲しげな顔で。それに少し罪悪感を感じながら、やっとこさ立ち上がった。埃を払いつつ、
「動物は嫌いじゃあないですよ。特に好きなのは猫ですけど、その次は犬が来る。でも――」
「でも?」
「なんかダメなんですよね。近くによると、喰われそうな感じなんです。……これって、おかしいですよね、やっぱ」
先生は口元に手をやり、何か思案している。少し間を置き、口を開くと、
「ま、仕方ないな。人間同士でも初めて会った時からウマが合わないってのがあるし。でも、少しずつ慣れていけよ。そうじゃないとここで仕事が出来ないからな」
少し意外だった。こんな反応は予想していなかった。今日は雪が降るな。
「分かりました。できる限り努力はします。でも、あまり近付かせないようにして下さいね」
「ああ、善処しよう。ほれシロ、向こうに行きなさい。さて、私は仕事をしているから、お前はその辺の掃除を頼む。あと、コーヒーを」
「分かりました」
俺はそう言うと、給湯室に向かった。
俺がここでしている仕事はこんな事。コーヒー入れ等の炊事関係。それと、掃除などの雑用。時々デザインについて意見を求められるけど、そんな事滅多に無い。一ヶ月に一回あれば良い方だ。ま、そんな雑務をこなすだけだけど、バイト代はまあまあいいのでそんなに苦にはならない。あれが無かったらの話だが……。
「はい、霧憂デザイン事務所」
「すみませーん。すぺしゃるラーメンと餃子を五つずつー」
「間違ってますよ」
「あ、あと、ツブアンマンを模ったあんぱん」
「だから違うって」
「…………」
「…………」
沈黙。だが、これこそが俺がこの仕事で苦にしている事の初動。ま、他の奴からの時とは100パーセント違うけど。
「あー……、なあ、“猫妖精(ケット・シー)”……。こんな回りくどい事止めないか?」
先生の言葉に相手は、普通の女よりも一オクターブほど高いキンキン声で、
「えー! 何てこと言うんですか!? 裏の社会で生きる者には、暗号が必須じゃないですか!!」
あー、やかましい。頭がぐらぐらする。シロまで耳を押さえて苦しんでるじゃねえか。
「……あのなぁ、“猫妖精”。そのどこで間違ったか解らないような変な知識を常識として捉えるな。我々の常識と外の常識は違う。だから今度からは普通にしろ」
「ひどいですー。まるで私が干渉師の事を何も理解してないおばかさんみたいじゃないですか」
「いや、みたいじゃなくて、馬鹿なんだ。お前は」
電話の向こうから、すすり泣きするような音が聞こえてくる。その音は次第に大きくなっていき、最終的に部屋を震わすほどの大音量の泣き声に替わった。
「うわーーーーーん!!! ひどいですー! 本当にひどいですー!! ばかばか呼ばわりするし、私が一生懸命考えた暗号を意味無いって言うし!! 聖ちゃんが言うな、って言うから、象徴名でも呼ばないのに、聖ちゃんは私のこと“猫妖精”って呼ぶし!! ふん! いいもん! こうなったら、イヤと言うほど言ってあげるんだから!! “血塗れの女王(ブラッディクイーン)”! “血塗れの女王”!! “血塗れの女王”―――!!!」
――いや、マジでやかましい。さっさとなだめてくれよ、先生。
「言いたいのなら言い続けろ。その分、私はお前の事を無視するし、仕事も受けない」
ああっ! 火に油注いでるよ、この人は! しかも何気なく最後通牒渡してるし!
だが、その言葉が意外と効いたのか、泣き声は少しずつ静かになり、しゃぐり泣きながら、言葉を発した。
「……ひっぐ、えっぐ……。無視されるの、嫌……」
「常人なら誰でもそうだよ。良いからもう泣き止め。依頼を聞いてやろう、――フローラ」
「うんっ! やっぱり聖ちゃんいい人だっ! 近くにいたらキスしたくなるぐらい!」
「――いや、遠慮しておく。女に興味は無い」
「もう、聖ちゃんのいけずー!」
フローラと呼ばれた女の声が一気に明るくなり、さっきのハイテンションに戻った。しかもさっきよりテンション高い。良かったのか悪かったのか……。
「――で、依頼ってのは何だ? どうせ、“干渉師(インターフェアー)”の仕事だろう?」
「うん。えっとねー、三日ほど前に“怨霊(ゴースト)”を祓って欲しいって言われたんだー。でもねー、その怨霊さん、まったく私の話聞いてくれなかったのー。しかも攻撃までしてくるし。で、命からがら逃げてきたのよー。これはもう説得不可能ってことで、“封印師(シーラー)”であり、“除去師(リムーバー)”である聖ちゃんに頼もうかと思ったの」
一般人には全く分からないので、一応説明しよう。
この世界には、“怨霊”が存在する。死んだにも関わらず、この世界に残っている魂をそう言う。で、この怨霊は大抵は悪さをしないのだが、時々悪さをする奴がいる。
それに対処するのが“干渉師”。そして、“干渉師”と言うのは三つに分けられる。
まず、“説得師(パーサーダー)”。円滑にあの世に行ってもらう為に説得を行う。“猫妖精”はこれ。
説得が失敗した場合、次は“封印師”に回される。封印師は怨霊を何かに封印し、それを、時間をかけて清める事によって成仏させる。
だが、この二つでも無理な強力な奴もいる訳で、これに対処するのが“除去師”。戦闘によって強制的に昇天させる。怨霊にも痛覚はあるので、除去師によって昇天させられた怨霊は、かなり痛々しい事になる。
で、“干渉師”には“象徴名(シンボルネーム)”、いわゆる通り名がある。“猫妖精”もその一つで、他に“騒音(ノイズ)”、“蒼炎”などの多くの干渉師がいる。
先生の象徴名は“血塗れの女王”。だが、先生はそれが嫌いらしい。そりゃまあ、血塗れなんて普通は嫌だろう。そして分類は除去師。だが、封印師でもある。干渉師の中では異色な人物らしい。
ま、簡単な説明はこれくらいでいいだろう。頭をこっちに戻す。
説明を聞きながら、先生は電卓で目にも止まらぬスピードで計算を行う。――はぁ、これは依頼受けるんだろうな……。
「よし、いいだろう。その仕事引き受けた」
「えっ? 受けるの? まだ詳しいこと話してないのに」
「どうせ大した事じゃあ無い。ま、依頼料の方は7:3で良いな。当然、私が7だ」
「ひっどーい! 半分こでしょー!?」
「悪いが、8:2でも良いかと思ったぐらいだ。取り分が増えただけだけありがたいと思え」
「ぶー、ぶー!! わかりましたよー。いいですよ、それで。でも、失敗は許しませんからねー。――それじゃ、詳しい事はFAXで送るんで。じゃあ、頑張ってね、聖ちゃん」
「言われんでも仕事はきっちりやる。それじゃあな、フローラ」
「うん! まったねー!」
能天気な声が消え、続けてFAXが送られてきた。先生はそれを見ると、無気味な笑いを浮かべながらこっちを見て、
「東堂、今回の仕事はなかなかに面白いぞ。場所が場所だからな」
意味が分からない。だが、先生があの笑いを出す時は、ロクな事がない。それだけは、理解している。
――それしても暑い。暦ではもう秋のはずなのに、残暑から抜けきれていない。まったく、温暖化ってのがこんなにきついもんだったとはね。昔の人間もこれを体験してたら、環境破壊なんかしなかっただろうな。
で、今いる所は、――俺の学校だ。先生が笑っていた理由が分かった……。
でもなぁ……、うちの学校に怨霊がいるなんて話、初めて聞いたぞ。そりゃあ、怨霊の全部が知られているって訳じゃない。けど、干渉が行われる怨霊って、世間的に噂になった奴だ。だから、今回のは少しおかしい。
と、色々考えたけど俺には関係無いな。俺がしなければいけない事は、先生の封印、除去用の装備の運搬なんだから。
そう、俺は今、結構でかめのリュックを背負っている。中には封印及び攻撃用の巫札が大量。そして、リュックの横には竹刀袋がついている。これが結構重い。中にはあの有名な――、
「ほれ、さっさと終わらせて帰るんだ。ちんたら歩いてたら朝になるぞ!」
――む、それもそうだ。明日は休日とはいえ、急がないと。
第一音楽室の前。改装の予定があるって話で今は使われていない。
――って、ここか! 確かに話のつじつまとしちゃ合ってる。怨霊が出たから使うのを止めた。これが理由だろう。だがおかしい。俺は先生の(地獄の)特訓で気(魔力)を使えるようになったから、怨霊がいるかどうか感じる事ができる。けど、俺は一度も気付かなかった。どういう事だ?
「何故今までここの怨霊に気付かなかったのか、って顔をしているな」
うわ、人の考えを読んだ。エスパー能力もあるのかよ。
「それは仕方ないな。――これを見てみろ。御札が貼ってあるだろう」
扉の端っこの方に、確かに御札が貼ってあった。それも四方の隅に。
「おそらく、“猫妖精”に依頼した人物が貼ったんだろう。怨霊が説得されるまでの保険だな。効果は結界を発生させ、怨霊を閉じ込める。しかも気を感知されないように感知妨害もか……。どこで手に入れたんだか……」
なるほど、それで気付かなかったのか。
説明を終えた先生は扉に手をかけると、一気に扉を開けた。
開いた瞬間、俺はぞっとする感覚に襲われた。今回の怨霊は完全な自縛霊だ。音楽室自体が怨霊の妖気になっちまってる。
怨霊ってのは分類すると、
憑依霊。
背後霊。
地縛霊。
浮遊霊。
まあ、憑依は全ての霊が出来る事だが、この場合は特に、人間、動物、物に憑いて悪さをするのを憑依霊と、干渉師達は定義している。
で、今回のは自縛霊。自縛霊は、特定の場所に未練や思い出があったりするか、又は、その場所で死亡した場合になる。
それにしても今回のは結構ヤバイな。妖気が濃い。ずっと閉じ込められてたから、恨みがレベルアップしたんじゃねえか?
「ふむ。中々に楽しめそうじゃないか」
――あーあ、この人楽しんでるよ。こっちとしては一刻も早く帰りたいね。
と、俺が音楽室に入った瞬間、扉が勢いよく閉められた。それに笑みを強くするおかしい人が一名。そして、奥の方から笑い声が響き始めた。
「あはは! まさか入ってくる馬鹿がいるなんてね!」
音楽室の中は明かりが点いていない為に暗い。だが、高笑いする怨霊の体は光っていて、視認する事が出来る。うちの学校の制服を着ている。背の高さは一六五センチほど。俺より身長が高い……。それは置いといて、一番特徴を挙げるとすれば、――胸がデカイ。
「君がここの怨霊か。さて、さっそくだが用件を言わしてもらうぞ、音羽響子」
「あら? 私の事を知っているの?」
「まあな。優秀な説得師は下調べがきっちりしていてね。君の生い立ちから死んだ経緯までこと細かに調べられていたよ」
え!? 猫妖精ってそんなに優秀だったのか!?
「何でも君は、優秀なバイオリニストだったらしいな。だが、他の女子からその才能を妬まれ、うわ、陰湿だなこのいじめ。で、結局耐えられなくなり、ここで首吊り自殺、か」
それを聞いた音羽響子は先生を睨み、肩を震わせながら、
「――何よ、わざわざそれを私に思い出させに来たの?」
「いや、それだけでは済まんさ。悪いが、既に君には、封印又は除去が可能となっている」
「封印? 除去? 何それ?」
「――簡単だ。ここから無理矢理消しちまうのさ――」
言うと、先生は怨霊に向かって駆けた。手には既に攻撃用の巫札がある。腕を振ってそれを投げた。
巫札は、名称は変わるが、中国や日本の呪術、陰陽などで使われる。巫札には、梵字などの古字や呪術文字が書き込まれており、気を流すだけで使用可能になる。利点は呪文を口で言う手間を省ける事で、違う種類の巫札を組み合わせ、威力を強化する事も出来る。
そして、先生が今投げたのは、炎系攻撃用の“炎弾射手”。巫札の文字が光り、一瞬で炎を纏った弾丸となる。その数、四。
怨霊は焦る事なく、どこからかバイオリンを取り出すと、優雅に奏で始めた。だが、怨霊の優雅な引き方に比べ、その音色は頭が割れそうになるほど酷い物だった。
――って、おい! どこが優秀なバイオリニストだ! これじゃあ、素人の俺が引いた方が多分百倍はマシだぞ!
しかし、俺はその音色の力をまざまざと見せつけられた。怨霊に迫っていた炎の弾丸が、一瞬にして元の巫札となり、床にはらはらと舞った。
「――ほう、バイオリンの音色によって気を分散させるのか」
「さあ? 悪いけど、そういう事はよく分からないの。――だけどね、これが、私の今の力なのよ!!」
怨霊はまた奏で始める。今度はさっきよりもテンポが速く、音色ももっと酷い。マジで頭が割れるような感じがする。音楽室に置いてある棚や小物類がガタガタ震え、ピシピシとひびが入っていく。そして今、ほとんど一斉に弾け、また違う音を出した。その音は、静かな時だったらかなり目立つ音だっただろう。だが、バイオリンの破壊の音色が響く状況では全く気にならない。くそ、“猫妖精”の声もきつかったが、これは別物だ。マジでキツイ。
「東堂! はの七番を出せっ! 自分の分も張れよ! じゃないと気絶するぞ!」
急に先生が叫んだ。バイオリンの音でかき消され少し聞こえにくかったが、何とか聞き取った。すぐにリュックに手を突っ込み、言われた巫札を取り出す。
はの七番。それは先生と俺との間だけで使われる巫札の整理番号の一つ。用途、能力別に分けられている。ちなみに、さっきの“炎弾射手”は、ほの三番だ。で、はの七番の能力は音系の攻撃に対する防御系で、一種の結界を発生させる、“雑音遮断”。
俺は一枚を先生に投げ渡し、自分の分に魔力を通す。すぐに結界が発生し、雑音を遮断した。頭の痛みも消え、気分も楽になった。
「――さて、音羽響子。悪いが、君の攻撃はもう効かない。君の能力はバイオリンによって発生させた一種の超音波による物質の破壊。そしてメインは、超音波によって脳を破壊する事だな。能力的には厄介だが、残念ながら威力が今一つだな。やはり、“雑音”に迫る物が無い。――では、おとなしくあの世に逝ってもらおうか」
先生は巫札を手の間に挟み込み、今にも投擲しようとしている。だが、怨霊はそれに臆する事なく笑い出した。
「あははははは! そうね。残念だけど私の負けのようね。前に来た金髪の女なんかとは違うわ」
「そりゃどうも」
「だけど、――あなたって胸無いわね。いくら強いからって、スタイルが良くなかったらダメよ。 ねぇ、そこのあなたもそう思わない?」
なぜそこで俺に振る! しかもそれって……先生のNGワード……。
ちらりと先生を見る。先生は顔を下に伏せたまま、何も言わない。だが、――鬼がいよいよ降臨する。それだけは読める。
「あら? もしかして、悪い事言っちゃったかしら? でもね、ウソを言うより、本当の事を言った方が良いでしょう?」
もう止めておけって……。俺、もう知らねえぞ……。
「東堂っ!!!」
「――っ! はいっ!!」
「村正を出せっ!!!」
鬼が出たーーーっ!! 残念ながらあの怨霊に明日はねえ。これはもう決定付けられた。
俺はリュックの横の竹刀袋を開け、中の物を取り出し、先生に向けて放る。先生はこっちを向かずにそれを受け取ると、柄を持ち、一気に引き抜いた。
中から現れたのは、鈍く銀色に光る刃。傍から見ればきれいに見える刃だが、怨霊を感じる者なら、この刀から発せられる邪気が分かる。まるで魂を吸い取られそうに感じる邪悪な美しさと、生きているかのように大量の血を求めているおぞましさが、ひしひしと伝わってくる。
この刀の銘は、“村正”。名刀正宗を正とすれば、真逆の邪と言われる妖刀である。
先生は柄を両手で握り、両腕と刀を後ろ上段に回し、半身の体勢になる。
「――封印で済ましてやろうと思ったがもう止めだ。お前はもう除去決定。いや、滅殺決定。地獄に逝って、閻魔の前で懺悔しな!」
言うと、一気に村正を振るう。怨霊との距離は開いている。振るった所で当たる事は無い。高速で振り下ろされた刃は床に突き刺さった。
「――ふふ、ふふ、あはははははは!! 何よそれ! もう笑うしか無いわ! 散々喚いたくせにそれ? やっぱり、胸の小さい力馬鹿ってその程度なのね!!」
「――喚くな。静かにして聞け、闇の咆哮を」
すると、音楽室中に静かな唸り声が聞こえ始めた。獲物を見つけた獣が、襲う機会を窺う時に洩らすような声。それは次第に強まっていき、一気に吼え、刹那、怨霊に一本の線が入り、周りの空間と共に斬れた。怨霊には、何が起きたのか理解が出来なかったらしい。いや、間に合わなかったのだろう。線は、一気に怨霊と斬った空間を飲み込んだのだ。音羽響子が最期に残した音は、あ、の一音だけだった。
そして線は、勢いを衰えずに周りの邪気に満ちた空間を飲み込んでいく。プールの栓を抜いたかのように勢い良く。止まったのは、音楽室に満ちた全ての邪気を食い終わった時だった。
先生はそれを見届けた後、村正を鞘に仕舞った。額には、大粒の汗が流れている。だが、先生はそれを気に留めずに、
「胸がデカイだけの世間知らずには、勿体無かったな。――さて、これで一件落着。東堂、撤収だ、撤収。帰るぞ」
そう言うと先生は、村正を俺に渡し、さっさと行ってしまった。俺はすぐ、竹刀袋に仕舞うと駆け出し、先生を追いかけた。やはり、鬼はいる。“血塗れ女王”。その名前に偽りは無かった。それを再認識した夜は、太陽の現れによって終わろうとしていた――。
そこに、シャツとジーンズ姿の女が一人立っていた。その女の下には、一人の少年が裸で倒れている。
「まっさか生きてる奴がいるとはね……。怨霊に喰われて生きてる奴は噂にゃ聞いたが、実物は初めて見たぞ。しかも、今回の怨霊(やつ)は“空間喰い”になった犬だぞ? それで生きてるのか……。ふざけてるな。まあ確かにこいつの魔力は桁違いだが、魔術師では無さそうだし……。うーん、誰かに似てるんだよなー。誰だっけか?」
女は腕を組み、首を傾げながら、少年の顔を見る。そして、いきなり手を打つと、
「分かった! 義美(よしみ)の野郎だ! となるとこいつは噂に聞いた弟の義高(よしたか)か! そうかそうか、だから魔力が多い訳か」
女は少年を見ながらまた思案をはじめ、徐々にその顔を笑みに変えると、
「――これも何かの縁だよな〜。よし、うちで雇おう。義美の方に手を回しておけばどうとでもなるな。いや〜丁度良かった。下働きが欲しかったんだ。――あ、でも記憶は消しといたほうが良いな。今回の事は忘れた方が良いからな。ま、魔力多いから対魔法(レジスト)かかって時々思い出す事もあるだろうけど……良いよな」
女は一人で納得し、一人頷いていた……。
俺が巻き込まれるようになったのは、これのせいだ。
だが、俺はそれを忘れてしまっている。先生の魔法で。
俺は未だにこの事を思い出す事が出来ない。時に夢に見るだけだ。しかも断片的に。
ま、思い出してもすでに遅いのだろう。
俺の苦労は、まだまだ続く――。
Bloody Queen
Sword magician
0/1
いつもの時間に、目覚ましで目が覚めた。
これが日常。いつも通りの日常。
0/2
エレベーターに乗り、いつもと違うボタンを押す。それは四階のボタン。
やっぱり、止めておくべきだった、と――。
1/1
キ―ン、コーン、カーン、コーン……。
1/2
街の中心から少し離れた古い雑居ビルの三階。
1/3
テキパキと書類の束や本の山、散乱しているゴミを掃除をしていると、電話がけたたましく鳴り始めた。先生は電話のテブラボタンを押し、
1/4
夜。外はすでに真っ暗だ。
1/5
すでに話はついていたのか、学校内にはすんなり入る事が出来た。先生は速足で目的地を目指し、到着した。
0/3
あるマンションの四階。
0/4
そう、これが全ての始まり。