くろものいちにち




 空に、長大な船があった。

 船の名は、武蔵。

 右舷と左舷に前後三隻、中央に前後二隻、計八隻の船が、それぞれ隣り合う船と数十本の太縄で連結しているという構造の航空都市艦群だ。

 その中の一隻、左舷中央に位置する村山の表層部の公園に、早朝にも関わらず、多くの人が集まっていた。

 彼、彼女らは、武蔵アリアダスト学院の生徒達だ。

 早朝訓練と称して、中央後部の奥多摩の艦尾にある教導院から、村山までのマラソンを行った後だ。皆、体を休める為、思い思いに芝生の上に座り寝ころび、竹ボトルの水を飲んだり、友人達と喋ったりしていた。

 そんな生徒達の中に総長兼生徒会長である葵・トーリと、自動人形で大罪武装ロイズモイ・オプロである極東の当主、ホライゾン・アリアダストの姿があった。二人は向かい合うように座っている。

 ホライゾンが竹ボトルを差し出すと、トーリはほがらかな顔でそれを受け取った。しかし、中身を口に含んだ瞬間、ぶわっと盛大に吹き出し、後方に倒れ伏した。

 まるで毒でも飲んだかのように、白目を向き、ピクピクと震えながら横たわるトーリ。ホライゾンはそんなトーリと転がる竹ボトルを交互に眺めた後、何がダメだったのだろう、と一人首を捻った。

 周囲の生徒達はというと、二人の方に視線は向けたものの、トーリとホライゾンが漫才をやっているのだろうと認識し、各々の休息にすぐに戻っている。

 と、そこで、ホライゾンの近くに動きがあった。

 彼女が気配を察知して、その方向に視線を向けてみると、芝生の継ぎ目にある側溝から、黒く丸い物体が姿を現した。それらは真ん中辺りにある感覚器である白目をホライゾンに向け、

『おはよう ほらいぞん』『ぐっもーにん』『ぼんじゅーる』

「おはようございます。各国言語で挨拶されるとは、今日も皆様はいけておりますね」

『いけてる』『いけめん』『つけめん』

「Jug.、いけております。周りの方々にも気付かれておりませんし」

 周囲を見渡しながらホライゾンがそう告げると、黒い生物はもう少しだけその姿を側溝から出してきた。

 この黒い生物の名は、黒藻の獣。

 武蔵や多くの都市で下水処理役を担っている意思共通生物だ。光合成のように、汚れ≠汚れていない≠ノ浄化することができる彼らは、各国と食糧供給と下水処理の取引契約を結んでいる。

 下水処理が担当の彼らは、基本的に汚水にまみれている。こぼれる汚水は浄化できるが、臭いにまでその能力は及ばない。それゆえに、彼らは人々とあまり接しないように行動している。

 だからこそ、彼らが人の名前を呼ぶことは非常に珍しいのだが、彼らが今意思疎通を図っている相手、ホライゾンは別格――彼らの友達なのだ。

『ほらいぞん げんき?』

「Jug.、ホライゾンは朝からトップギアで元気です」

『げんき いいこと でも てんしょん あげあげ とまれない』

「そうですね、気を付けなければ。ただでさえ、武蔵の皆様はテンション高過ぎますから。最近は正純まさずみ様まで毒されてしまったようで。ひたすら湧き出るボケの嵐に、どうツッコミを入れたものか悩みの種です。……ただ、ツッコミ役が減るのはおいしいとも思えます」

『つっこみやく は だいじ』

「それだけ出番が増えますからね。英国イングランド三征西班牙トレス・エスパニアから新しい方もいらして、少し影が薄くなっておりますが、この調子でメインヒロインの座を守りたいものです」

『がんばれ ほらいぞん』『まけるな ほらいぞん』『しんきゃら むね おおきい ゆうり?』

「最後の一言は余計だと判断します。――全く、嫉妬とはかくも厄介ですね」

 言って、彼女は竹ボトルをもう一本取りだすと、中身を黒藻の獣へと掛けた。さっきトーリを悶絶させたものと同じかと思いきや、それは透明無色の液体、すなわち普通の水だった。

 黒藻の獣達は感覚器の目を細めて、水を己の体へと染み込ませる。そして、水が止むと、再度感覚器の目をホライゾンへと向ける。

『ありがと』

「礼には及びません。トーリ様用でしたが、飲む本人があの通りですので」

 ホライゾンが視線を向けると、黒藻の獣もそちらを向く。見られている葵はというと、相も変わらず沈黙したままだ。

『だいじょうぶ?』『しんでる?』『ゆけむり りょじょう さつじんじけん?』

「確かにトーリ様は頻繁ひんぱんに裸になっていますが、トーリ様の裸を見て喜ぶ人はいないでしょう。ですので、どちらかと言うと、脱ぐ度に絶叫と悲鳴が乱舞するサスペンスホラーです」

『ぬぎおとこ』『ぞうしょく ぬぎおとこ』『じごくえず』

 そんなくだらないやり取りをしていると、遠くでジャージ姿のオリオトライが集合をかけた。

 皆が立ち上がり集まっていくのを見て、ホライゾンはまた黒藻の獣に視線を戻し、

「もう少し話していたかったのですが、集合のようです」

『またね ほらいぞん』

「ええ、それではまた」

 ホライゾンは立ち上がり、軽く頭を下げながら言う。そして、倒れているトーリに拳を一発入れて覚醒させると、皆の下へと歩き去った。

 ホライゾンとトーリがいなくなった後、黒藻の獣達は側溝に入り、自分達の仕事に戻っていった。


     ●


 黒藻の獣は、難敵と格闘していた。

 下水管の汚れを浄化していたのだが、パイプの詰まっている箇所に遭遇してしまったのだ。

 それは、役所の管理人に頼めば対処してくれる。だが、先ほど伝えてみたものの、返事は芳しく無かった。末世解決の宣言以来、武蔵の中は慌ただしく、役所の人間はこれまで以上にてんてこ舞いのようで、手が足りていないらしい。

 仕方なく、黒藻の獣は自分自身の手でどうにかすることにしていた。

 一匹がブラシの役割を引き受け、詰まっている箇所にアタックを仕掛ける。しかし、そう簡単にどうにかなるのなら、最初から役所には頼まない。果敢に攻め続けるも、少しずつその一匹から水が失われていく。

 そこで交代。次の一匹が続けて仕掛ける。乾いてしまった先の一匹は、栄養と水を求めて、どこかへと去っていく。それをも介さずに作業は続く。そして、また交代が起こる。

 何体が挑んだのだろうか。詰まりが緩み、少しずつ水が流れ始めて来たところで、一気に詰まりが汚水に流されて、無くなった。

 食事である汚水を浴び、黒藻の獣は満足そうに感覚器の目を細めていた。

 彼らはそのまま、食事を取りつつ、汚水の浄化を続けるのだった。


     ●


 右舷の中央に位置する多摩。その表層部には、青雷亭ブルーサンダ―というパン屋兼軽食屋がある。

 朝早くから開店している店だが、夕方の時分でも、学生達が育ち盛りの体に栄養を補うため、多くの人数が訪れていた。

 その店の前に、本や教科書を手に持った本多ほんだ正純まさずみが一人立っていた。

 ……小腹が空いたと思ったところで、目の前に青雷亭だからなあ……。

 あまりのタイミングの良さ、もとい悪さに呆れながら、正純は頭を捻っていた。

 正純の家計は、授業を休んで小等部で講師のバイトをしなければいけないほど、金に困っている状態だ。必要最低限の食事なら仕方ないが、一時の誘惑に駆られて浪費するかしないかは大きな問題だった。

 ……人が食べているのを見るのと、余計に腹が空くな……。アレは例外だけど……。

 英国との交渉で出されていた、御広敷おひろしきの生魚料理にハッサンのカレーをかけた謎料理を思い出して、正純の食欲は少し収まった。しかし、逆に胸やけ気味なのが困りものだ。

 再度食欲が戻る前に、正純は青雷亭を後にしようとする。だが、そこで声がかけられた。

『まさずみ』

「――ん? ああ、お前か」

 不意の呼びかけに、怪訝けげんな表情で周囲を見渡した正純だったが、足元に見知った姿を見つけると、その表情を和らげた。

 そこには、黒藻の獣が側溝から体の一部を覗かせていた。頭を少し下げ、正純は感覚器の目を見る。

「どうした? 何かあったか?」

『まさずみ ずっと うごかない なぜ?』

「そこでパンを買うか買わないかで悩んでたんだよ。……お金そんなに持ってないからね」

 少し気恥ずかしさを感じ、正純は頬をかきながら話す。黒藻の獣はそんな彼女の様子に気付かないのか、

『まさずみ おかね いる?』

「えらく直球だなぁ……。まぁ、あるに越したことは無いけれど……」

 答えに困ったが、正純は素直に答えを返した。すると、黒藻の獣は体を側溝へと戻してしまった。突然姿が消え、呆気に取られる正純だったが、すぐに黒藻の獣は戻って来た。それに安堵あんどしつつ、黒藻の獣が体の上に何かを載せているのに、彼女は気付いた。

「それは何だ?」

『これ あげる』

 問いに、黒藻の獣はその物体を地面に置くことで返した。そして、その体をまた側溝の一部に戻しながら、

『またね まさずみ』

「ああ、また――って、だから、これは!?」

 正純が慌てて再度問いかけるも、黒藻の獣は戻って来なかった。

 さすがに側溝に向かってずっと話しかけているのは体面上良くないので、仕方なく、正純は黒藻の獣が置いていった物を手に取った。周囲を眺めてみて、開き口らしきところを見つけたので、開いてみた。すると、正純の顔が驚愕きようがくに変わった。

「こ、これ……!」

 中に入っていたのはお金だった。しかも、正純のバイト数十回分に相当するぐらいの額が入っている。

 ……まさかお金がいるって言ったから、これを置いていったのか?

 黒藻の獣の親切に嬉しさを覚える一方、正純は一つの可能性を感じていた。

 ……こんな大金が入った財布となると、確実に落とし物だよな……。

 確証は無いが、可能性を思ってしまった時点で、正純の選択肢にネコババは無かった。

 正純は財布をしっかり手に持つと、駆け足で届け出に行くのだった。

 そんな彼女の脳裏に、先ほどまでの食欲は全く無かった。


     ●


 時刻は進み、日をまたいだ頃。

 右舷中央、多摩表層部の居酒屋などが立ち並ぶ一角でも、店の内外に関わらず、人影が少なくなっていた。だが、各店の軒先に吊るされた幾つもの赤提灯ちようちんは、細長い路地をおぼろげに照らし続けている。

 そんな路地を、武蔵アリアダスト学院の教員、三要さんようが歩いていた。しかし、彼女の目は焦点がどこかずれており、頬も真っ赤に染まっている。そして足取りはというと、ふらふらとしていて、歩くこともままならない。足を前に出そうとする度にバランスを崩しかけ、逆の足で何とかバランスを取り耐えるのを、延々と繰り返している。

 まごうこと無き、千鳥足。

 完全にできあがった酔っ払いだ。

 妙齢の女がここまでになるというのは、滑稽(こつけい)に見えるよりも不安しか周囲には抱かせないのだが、当の本人に今、そんな思考ができる訳も無かった。

「らったくもぉー……、ろっかに良いれあい無いですはねぇ……」

 呂律が回らないまま、愚痴を言いながら、三要は少しずつ前へと進む。

「もおー、真喜子先輩もつめらいんだもんなー。わらしだって、わらしらってねえ――」

 突然、三要は口元を手で押さえ、前にかがみ込んだ。彼女の表情はさっきまでの赤ら顔から、急に真っ青になっている。

 三要は、地面にうっ伏しながら、よろよろと這うように移動する。体に力は入っておらず、気力で動いているのが読み取れる。

 そして、やっとの思いで路地の端に辿り着くと、口を側溝の上に持って行き――吐いた。

『よごれ でた』『きれい する』

 三要の視界に入らないように、黒藻の獣は浄化作業を開始する。

 夜も黒藻の獣の仕事は無くならない。

 人々が生活する限り、汚れは無くならないからだ。


 そして、また次の一日がやって来る。

 黒藻の獣は、今日も、目立たないながらも働き続ける――。




【戻る】