とある病院の怪奇現象ワンダリングゴースト


序 章 彼女を呼ぶ声 Unnatural_Phenomenon.




 コツ――コツ――と、廊下に靴音が響き渡る。
 天井にえつけられた主照明はすでに消されていて、壁の下側にライン状に配置された補助照明がおぼろげに足元を照らしている。しかし、安全のために設置されたはずの補助照明の光は、逆にどこか怪しげな雰囲気をかもし出していた。
 ここは学園都市第七学区のとある病院。時刻は午前二時を過ぎた、いわゆるうし三つ時である。
 そんな時間に病院内を歩き回る姿があるとすれば、眠れない入院患者か、そんな人間がいないか見回る看護師ぐらいで、他にあるとすれば――、
(丑三つ時名物の幽霊――って、そんな訳ないでしょー。ここは学園都市だよ? そんなオカルトある訳ないじゃんねー)
 LEDの懐中電灯を手にした若い女の看護師は、苦笑を浮かべながら廊下を進む。
 病院内はとても静かで、自分が発している靴音以外は、治療機器や休憩室に置いてある自動販売機の駆動音ぐらいしか聞こえない。
(てか、当直の見回りってめんどすぎるのよねぇ……。夢遊病者とかそういう患者じゃない限り早々出歩く訳ないし、問題があったとしてもナースコールや警備システムがあるしね。誰が好き好んでこんな時間に病院内を歩き回るってのよ。――こんなにも)


『こんなにも、おどろおどろしいのに――』


 そんな事を、看護師はふと思ってしまった。
 さっきまでは幽霊などと馬鹿にしていたが、人間の根底に植え付けられたものは、そうそうに拭い去る事はできない。人がいくら科学という鎧を身にまとったとしても、夜半の闇や静寂は、否応なく原始的な恐怖を呼び起こさせる。
 人の生き死にが日常茶飯事である病院という場所もまた、その恐怖をさらに増幅させる。
 そして、彼女は今、たった一人。
 たった一人でそんな場所にいる。
 病室にいる入院患者達はぐっすり眠っている。当直室にいる先輩達も仮眠を取っているか、こっちの苦労も知らずに暇を潰しているだろう。
 人を呼ぼうと思っても、すぐには誰も来てくれない。
 この廊下には自分だけ。
 この空間には自分だけ。
 この世界には自分だけ。
 誰も、誰もいない――。
 思わず、彼女の歩みが速くなる。
 一刻も早く見回りを終わらせて宿直室に戻ろう。そんな思考が脳を支配する。
 足音が大きくなってしまっている。夜にこんな音を響かせては患者の安眠を妨害してしまう。
 だが、人の眠りに気を使えるほどの余裕はすでになくなっていた。
 懐中電灯の光も、補助照明の灯りも、自分が立てる足音も、治療機器の音も、かすかにただよう病院特有の臭いも、考え出せばキリがないぐらいに、全てが恐怖をかき立てる。
(気にしちゃいけない気にしちゃいけない気にしちゃいけない――。これまで何度同じ事やってきたのよ! そんな変な事が起こる訳なんかな――)


『あーそーぼー』


「――ひっ!」
 突然聞こえた声に、ビクッと体が震えて立ちすくんだ。
 恐怖に体を縮めこませながら、彼女はゆっくりと周囲を見回す。
「こ、子供の声だったわよね……」
 懐中電灯で辺りを照らしてみるも、子供どころか、変わった物さえなかった。いたって平凡。いつも通りの廊下だ。
「な、何よ。誰もいないじゃない。空耳なんて疲れてるのかな……」
 そう呟いた時、


『あそぼう、おねえさん――』


 再度聞こえた声に、とっさに懐中電灯を振り回して周囲を確認する。
 だが、人の姿はない。スピーカーから聞こえたという事もない。さっきと何も変わっちゃいない。
(ちょっと待ってよちょっと待ってよ! 今はっきり聞こえちゃったじゃないの! 子供の声! 子供の声が!)
 目を見開き半狂乱になりながら、彼女は懐中電灯をいたるところに向ける。
 しかし何度を確認しても。
 誰もいない。
 何もない。
 不思議なところなど、どこにもないのに――。
 そこで彼女の心は折れた。
 見回りだとか安眠妨害だとか、もうなりふり構わずに彼女は駆け出した。
 必死で足を動かし、宿直室に戻ろうと急ぐ。
 あそこに戻ればいつもの平穏に戻れるはず。
 先輩達と馬鹿話をしたり、小言を聞かされたり、ゆっくりと仮眠だって取れるはずだ。そして起きたら朝になって、この嫌な空間から逃げ出せる。


『どうしたの、おねえさん。あそぼうよ。ねえ、あそぼうよ』
『そんなにいそいでどこいくの? わたしとあそんでくれないの? ねえ、あそぼうよ』
『まってよ。まってよ、おねえさん。わたしをおいていかないで』


 逃げても逃げても声が聞こえる。
 よくよく聞いてみれば女の子の声だが、そんなのもうどうでもいい。
 耳に入ってくる声を必死で振り払い走っていると、やっと宿直室の扉が見えた。
 扉の窓からは部屋の明かりが漏れ出している。
(……やっと着いた。中に入ってさっさと寝よう。寝ていればきっと――)
 一度扉の前で立ち止まり、荒い息を整えながら、彼女は扉の取っ手に手をかける。
 開ければ、先輩達がいるはず。そんなに焦ってどうしたんだ、とからかわれそうだが、今はその言葉が聞きたい。誰かと一緒にいれば落ち着くだろう。もう幻聴を聞く事もないはずだ。
 安堵あんどの息をつきながら、彼女は扉をスライドさせて中に入る。
「ただいま戻りました――」
 憔悴しようすいしきった彼女は、目を伏せながら部屋に入った。
 そして、ゆっくりと視線を上げ、目の前の光景を見て――、


「キャアアアアアアァァァァ――――――ッ!!」


 彼女はひとしきり絶叫した後、床に倒れてしまうのだった――。


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